【 廃家電騒動の背景と住民運動 】

1992年(平成4年)に家電販売店は現地、東田上の社有地(およそ2ヘクタール)を県に対して廃家電製品の仮り置き場として使用するための申請を出したあと、客から引き取った廃家電製品の搬入を始めた。
 廃家電の山があれほどの量に至るまでには、やむ終えないと思われるいくつかの要因もあった。新設された美馬環境整備組合が事業者のごみ(産業廃棄物)の受け入れをしなくなったことに加え、一方で、消費税のアップを目前に控えての買い替え需要の急増や、クズ鉄相場の低迷による産廃委託処理費がかさむようになったこともその要因になっているようだ。
 そのため、家電販売店は廃家電の処理を自社で解決することを目指し1994年(平成6年)に、現地で製品を破砕し、鉄、アルミなどの資源を取り出しリサイクルするための中間処理工場の建設を計画するも、地域住民との合意が得られず計画は宙に浮いたままとなった。しかしその間も廃家電製品の搬入は続くこととなり野積みされた廃家電の山は更に増大していった。

 1995年(平成7年)に、当時の田上地区の推進員(自治会長)であった(故)藤本傳吉さんが事態の改善を求めた陳情書を取りまとめ、町役場と保健所に対して提出した。しかし、現場の土地の使用に対する申請は出ており違法ではないとのことで、現実的な公害発生の事実がなければ私有地に対してそれ以上どうこう言う権限はないという判断だったようだ。県の環境整備課の見解もこれと同じであった。陳情書を提出した際に「公害が出るというのなら、その証明を持って来い」と言われたと、悔しそうに語る傳吉さんの姿が当時のTV報道の中に残っている。

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1997年10月27日 当時の脇町町議17人が現地調査に訪れた。

 宇民さんら住民の要望を受けて、議会も動き始めた。1997年10月16日には議会運営委員会を開き事態にについて協議した。しかし残念ながらこの日は明確な結論は出なかった。そして10日後の1997年10月27日に議員団によって現地調査、さらに全員協議会が開かれ家電販売会社に対し県を通じて指導を求めることが申し合わされた。この半月後の11月12日に住民、県、町関係者による協議の場が設けられた。この席上、会社側から廃家電の撤去予定が発表され、ここに来て問題解決に向けて大きく前進することになった。

(故) 藤本 傳吉さん

(当時の推進員) 桜間 文明さん

宇民 正儀さん

宇民 千代子さん

(故) 桜間 スミさん

曽川 義一さん

(故) 藤本 豊さん

三宅 仁平さん

1997年10月13日会社側によって水源地近辺の水質検査が行われた。

現地の空撮写真

 当時、住民代表として動いていた宇民さんは取材に訪れるマスコミ関係者を現地へ案内したり、騒動の推移を説明するなど、メディアへの対応には特に力を注いでいた。そしてこれが後に功を奏することになった。

現地取材に訪れたTV局のキャスター

1995年当時、最初に行政への改善要求を試みた藤本 傳吉さんもすでに亡くなって、今年で二年目の夏を迎えようとしている。

LAST UPDATE  20070616